1. はじめに

発掘調査

私は、2010(H22)年に三重県教育委員会を定年退職するまで、文化財技師という専門職として文化財保護行政、特に埋蔵文化財の保護と調査に従事した。しかし、次第に発掘調査の現場から遠のいた経緯があった。そのために得たものも大きかったが、現場への未練を残して定年を迎えた。

そこで、埋蔵文化財センターへの再任用を自ら希望し、発掘調査の現場に戻った。暑さ寒さはこたえた。それでも若い頃と同じように、ただ発掘に専念できるのが嬉しかった。まして、個人的に興味のある時代の遺跡に遭遇したのだから、自分の運の強さに驚きさえした。

発掘現場は、三重県四日市市の中野山遺跡(註1)が中心だった。この遺跡は台地上にあり、遺跡の大部分が調査された。各時代の人跡が認められたが、ここでは話を縄文時代の早い頃(約9,000~8,000年前)に絞っておこう。この頃には、4基の竪穴住居などもあったが、「煙道付炉穴」と呼ばれるものが百数十基発見されたことで注目された。

発掘された煙道付炉穴(註1の2014年の文献より)

煙道付炉穴

煙道付炉穴(えんどうつきろあな)は、地面に穴を二つ掘ってトンネルでつないだ構造をしている。内部が焼けていることから、一種の炉だったことは間違いない。大きい方の穴が焚口で、小さい穴は煙出しだ。しかし、なぜこんな構造をしているのか、何のための炉なのか、その正体は謎だ。

煙道付炉穴は、縄文時代の初め頃(1万余〜約7,000年前)に流行したが、どこにもあるわけではない。最古(草創期)のものは南九州に、次(早期前半)には三重から愛知・岐阜・長野および静岡に、そしてその後(早期後半)には関東に多い。時間とともに黒潮沿岸を北上し、内陸にも広がっているのだ(註2)。

ドングリと煙道付炉穴

氷河時代が終わって温暖化するにしたがい、暖かい気候に適した植物が北上しただろう。
この頃から、ドングリは縄文人の中心的な食料になったと思われる。

自分で用意した石皿と磨石でイチイガシを粉にした

ドングリは秋に大量に採れ、厳しい冬の貴重な食料だったはずだ。そこで、害虫やカビなどから安全に貯蔵することが大切だっただろう。

結論を先に書いてしまうが、この煙道付炉穴の発掘調査をしていた2012年の晩秋に、「煙道付炉穴は堅果類を乾燥貯蔵するための乾燥施設だったのではないか」、と考え始めた。それから実際に煙道付炉穴を作り、火を焚いてドングリや肉やイモを食べてみたり、風向きとの関係や内壁の焼け具合を観察したりした。

煙道付炉穴の燃焼実験(風向きに関係なく煙が出た)

一方、ちょうどその頃にドングリ食の民俗を研究した本(註3)が出版され、大いに勉強させていただいた。
さらにその後には、こうした考えや活動の成果を発表する機会もいただいた(註4)。

ドングリとは?

そんなわけで、植物全般に疎い私が堅果類(ナッツ)、特にドングリに関心を持ちだした。
まず、ドングリとは何ぞや?

学術用語でもないため、「ドングリ」という言葉の意味する範囲は曖昧だ。
「ドングリ眼(まなこ)」と言う場合は、まん丸なクヌギでなくてはいけない。これが今日的な一番狭い意味での使われ方だ。驚いた時に、コナラのように細長い目をする人はいないだろう。

ところが、地方により、人により、身近な種類だけを「ドングリ」と呼ぶ場合もあるようだ。一方、ブナ科22種(註5)の全部を「ドングリ」と呼ぶ、心の広い人もいるらしい。
しかし、クリやブナ・シイの仲間は除いた、ナラやカシの実を指す場合が最も一般的なようだ。そのほかに、マテバシイの仲間が自生する地方では、これらも含めているらしい。

結局、にわか勉強によるとドングリ(団栗)とは、一般にブナ科のコナラ属やマテバシイ属の果実で、アク抜きをしないと食べられないものを指す。
硬い果皮(殻)内に種皮(渋皮)と肥大した子葉の種子を持つ尖頭の堅果であり、花柱(花頭と花被・首)をもつ果実と殻斗(かくと:いわゆるドングリのお椀)から成る。

平たく言うと、クリに似ているが頭に帽子(お椀)をかぶって先が尖った生では食べられない硬い実、ということになりそうだ。

ドングリは、なぜ「ドングリ」と呼ばれる?

ドングリ(団栗)の「グリ」は「クリ」で問題ないが、「ドン」は「丸い」の意味(団)とする説と、否定的な意味とする説があるそうだ(註6)。
ところが、江戸時代には染料になる狭義のクヌギは「大なら」と呼ばれ、「小なら」が「どんぐり」とも呼ばれていたという(貝原益軒『大和本草』)。
なお、ここではクヌギやコナラ・ナラガシワ・アベマキをまとめて広義のクヌギ(檞=なら)としており、まだ樹種を超えて「ドングリ」とは呼んでいない。

ともかく、丸いクヌギではなく、細いコナラが先に「どんぐり」と呼ばれていたとなると、「丸い(団)クリ」が語源ではないだろう。

おそらく、染料になる「大なら」に対して、染料にならない方が否定的に「小なら」や「どんぐり」と呼ばれたのだろう。それが、全般的に食料としての価値が時代と共に下がるにしたがって、クリのようには美味しくなくて生では食べられないコナラのような木の実全般を、「クリ」に対する総称として否定的に「ドン+クリ」と呼ぶようになったのではなかろうか。

「クリ」は、「クロ」(黒)+「ミ」(実)で、木ではなく果実を指し、その木は「クリの木」だ。一方、「ドングリ」は樹種や形を超えた果実の呼称で、「クリ」に対する総称になっている。この点も、クリに比べて否定的な意味とする「ドン」+「クリ」説に有利ではなかろうか。

なお、樹種を超えた「ドングリ」という呼び名は、各地方の伝統的な名前とは別に付けられた全国的な呼び名であり、割と新しい呼び方のようだ(註7)。

ドングリ探しの始まり

列島のドングリは、オキナワウラジロガシのように西南諸島にだけ生育するものから、ミズナラのように寒冷な土地にだけ分布するものまである。ということは、1万年余りと長く続いて気候の変化もあった縄文時代にも、列島の各地で何らかの種類のドングリが食べられ続けていたのだろう。

そこで、何はともあれブナ科全22種の堅果と葉を収集しよう、と思い立った。そして今は、実生(みしょう:実から発芽したばかりの苗)を揃えようとしている。
煙道付炉穴との関係で始めたドングリ探しだったが、今ではもうドングリそのものが楽しい。

 

この「ドングリ考古学」では、煙道付炉穴の発掘所見と燃焼実験やドングリ探しの話、食や貯蔵の民俗と実験、さらにこれを踏まえた煙道付炉穴の機能とドングリの採集や暮らしのパターンについて、考えたことを紹介したい。
まず、第2章では煙道付炉穴の発掘結果について考える。

拾い集めて一升枡に入れたイチイガシ

- 註 -

註1:
2012年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅱ』
2013年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅲ』
2014年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅳ』
註2:
中国山地の例も、黒潮沿岸から内陸への波及と考えられる。
2013年、辻満久ほか『中国横断自動車道尾道松江線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(23) 只野原1号遺跡・只野原2号遺跡・只野原3号遺跡』㈶広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室
註3:
2012年、名久井文明『伝承された縄紋技術 木の実・樹皮・木製品
註4:
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会
註5:
分類には諸説あるようだが、ここでは一般的な分類に従う。
註6:
ドングリの名称に関しては、下記の文献を参考にした部分が多い。ただし、結論的な部分は異なる。
2001年、盛口満『ドングリの謎 拾って、食べて、考えた
註7:
1986年、松山利夫「ドングリお山が恋しいと かって山里の主食だった」『アニマ』14(12)

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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