11. まとめ

煙道付炉穴の発掘とドングリ

縄文時代の早い頃(約9,000~8,000年前)の煙道付炉穴(えんどうつきろあな)というものを、たくさん発掘調査する機会があった。これは全長が2~3mあり、二つの縦穴(燃焼坑と煙出坑)とこれらをつなぐトンネル(煙道)でできたもので、火を焚いた跡があった。

当初、この煙道付炉穴は何のためのものか、わからなかった。しかし発掘調査をしているうちに、ドングリ(註1)の乾燥用ではないか、と考えるようになった(註2)。

ところが、私はドングリについて何も知らなかった。そこで、一番広い意味でのドングリとして、ブナ科の22種を集めて勉強することにした。そして、自分の舌でドングリのアクの強さを確かめたり、ドングリクッキーを作ったり、いろいろな保存法を試してみたりした。

そうした中で、アク抜きもさることながら、貯蔵法も大切だと実感した。
なお、民俗例の貯蔵法には土中保存や樹上保存の生貯蔵もあるが、乾燥貯蔵が中心だったようだ。

ドングリ仲間の代表(左からクリ・イチイガシ・クヌギ・オキナワウラジロガシ)

煙道付炉穴の実験

本物と同じような煙道付炉穴を作り、実験をいろいろしてみた。

燃焼坑や煙出坑で、焼いたり煮たりできることも確認した。けれども、「それでは二つの縦穴とこれをつないだトンネルという面倒なものを、普通の炉とは別にわざわざ作ったことの説明にならない」、という疑問が強まった。

さらに、煙道付炉穴の最大の特徴は煙道の存在だ。煙道は炎が直接当たらないためのものだと気づき、その主な機能は乾燥用だとの思いを強めた。

また、風は中にまではあまり吹き込まず、風向きに関係なく煙出坑から煙が出た

さらに、乾燥用の燃焼実験では弱火がちょうど良く、風を利用して火勢を強めたものではないと思われた。

なお、弱火でも4日間の燃焼で本物と同程度に焼土化することも確認でき、煙道付炉穴は一般に4日間以上使われただろう、と考えた。
ただし、ドングリなどの収穫期間は一般に4日以上で、それがドングリ林全体ではもっと長かったはずだ。おそらく、基本的にキャンプの期間はドングリ林の収穫期間にしたがっていたのだろう。

一方、煙道の底に石皿などを据え置いた例は、火力調整のためのものではないかと考えた。すると、弱火が適した乾燥用炉とする理解と符合する。

なお、殺虫も乾燥と同時にできることも確認できた。

煙道付炉穴の燃焼実験(逆風でも煙出坑から煙が出た、風向きは関係ない!)

煙道付炉穴が小型になった理由

煙道付炉穴は長さが3mほどだったものが次第に2mほどと小型化したが、それは次のような事情があったからだろうと考えた。

実際に燃焼作業をして見ると、中に人が入ったままから必要な時だけ入るようになって、燃焼坑の小型化が進んだのではないか、と思われた。

また、ドングリの乾燥実験で煙出坑にカゴを据えたが、排土でドーナツ状に土手を作ったら好都合だった。そのうえ、この土手が煙道の一部としても機能していた。そこで、土手を作るようになって煙道が短くなったのではないか、とも思った。

煙道付炉穴の主な機能は燻製ではなく乾燥

煙出坑で鶏を燻製した実験もある。こうした利用も、一度に大量捕獲した場合にはあり得ただろう。
しかし、燻味を付けることよりも、乾燥させて保存食料を作ることが本来の目的で熱風に当てたのだろう。

ところが、熱風と煙が分離されていなかったために燻した状態にもなり、これを永年食べていると自然に燻した味に親しむことになり、燻製という嗜好が歴史的に醸成されたのではなかろうか。

燻製用とは後世からならではの見方で、どちらかというと燻製は結果的に得られた副次的な効果に過ぎず、煙道付炉穴の本来の主な機能は保存のための乾燥だったのではないか、と考えた。

乾燥の主な対象物はドングリなどの堅果類

煙道付炉穴から出土する人工物には、石鏃(せきぞく=やじり)や槍先などの狩猟具が少ない。一方、石皿(いしざら)や磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)という、植物質食料の調理具が多い
実際、この頃の櫛田川流域の縄文人はすぐ近くに引っ越しを繰り返しており、動物を追って暮らしていたとは考えにくい

そして、これらの石皿や磨石などに残されたデンプンの分析からは、縄文時代の初め頃からクリやコナラの仲間などが加工されていた、と指摘されている。
また、炭素と窒素の同位体に基づく食生活の復元研究からも、ドングリなどの植物食が中心だったと推定されている。

加えて、食用植物の中でも特に木の実への依存は、関東・中部地方の縄文中期の場合だが、ひかえめにみても40~60%はあったと見積もられている。

さらに、典型的な狩猟民と考えられていたブッシュマン(サン族)などでさえ、実は植物食が中心だったと報告されている。

肉はごちそう(優良食料)だが、いつでも手に入るものではない。一方、植物質食料はより安定して暮らしを支えていただろう(安定食料)。これが越冬用食料(保存食料)にもなれば、なおさらだ。

事実、縄文時代からクリやドングリの剝き実や「へそ」(座)、さらに貯蔵用の火棚のあったことが指摘されている。

また民俗的にも、主食のように食べられていた「シダミ」あるいは「シタミ」と呼ばれた粉は、乾燥貯蔵したドングリから作られたものであり、ドングリを乾燥させて貯蔵することの重要性は明らかだ。

結局、煙道付炉穴は、食料の中でも中心的であっただろうクリやドングリなどの堅果類を保存用に殺虫・乾燥させたもの(註3)、と考えられる。
煙道付炉穴がたくさん作られた理由も、ドングリなどが大量に乾燥保存されて生活を安定させた主要な食料だったからだろう(註4)。

縄文時代の炉の分類案(「地上炉」は3種のみを例示)

クリは副食的で、基本食はドングリ

クリは甘いために毎食には向かず、「毎日食べる基本食にはシタミ(ドングリ、筆者註)がむいている」、という話も採録されている。

また、『斐太後風土記』によると、平野部でクリは菓子類や副食的利用に傾いているのに対し、山間部でトチやナラは主食の一部を担っていた、という。

クリは縄文人に多用されていたことは間違いないが、クリの甘さが毎日食べる基本食には向かない、という事実にも注目しておきたい。
副食的利用はもちろん、クリは基本食としてのドングリに食味用として混ぜて食べていたのか、とも考えられる。

なお、クルミもおいしく、おそらくクリと似たような利用法だったのだろう。

ともかく、クリの多用は注目されがちだが、クリの背後にはそれ以上のドングリの多用があったのではなかろうか。おそらく、トチの実も同様だったのだろう。

生貯蔵より乾燥貯蔵が中心だった

ドングリなどの貯蔵の民俗例では、樹上保存と土中保存の生貯蔵と、乾燥貯蔵があるそうだ。

縄文時代の初め頃にも、土中(土坑)保存の例はある。

しかし、クリやドングリを乾燥貯蔵した証拠のシワのある剝き実や「へそ」(座)が、各遺跡から出土していると指摘されている。また、乾燥貯蔵用の火棚の検出例も紹介されている。

やはり縄文時代もドングリなどについては、屋内での乾燥貯蔵が重要だったようだ。

1集団の大きさと同時存在した遺構の数

遺跡は人の活動の跡地だが、ほとんどの場合は何時期かに及ぶ活動痕跡の累積したものだ。
ここの期間をスライスして当地方の一時期の様子を見ると、竪穴住居は1・2基の例が多い。
そしてこの1集団は同時期に、居住地では竪穴住居と煙道付炉穴を1基ほど、複数の各キャンプ地では煙道付炉穴を1基ほど使っていた場合が多かったと考えられる。

一方、竪穴住居には数人しか住めなかったはずで、1集団は数人か多くても十数人だった場合が多かったと考えられる。

なお、このような少人数の集団だけではモノや人の再生産はできないため、縄張りは排他的ではなかったはすで、さらに広域の社会単位の存在を想定させる。

ドングリの採集と居住のパターン

クリには10年程の盛果期があるが、ドングリなどの堅果類も大同小異だろう。そして、クリやドングリなどの林全体にも、緩やかな盛果期があったと考えられる。
さらに同じドングリ林でも、ある時期は縄張り内で一番良く拾えたが、ある時期にはほどほどに良く拾えたり、やがて少しだけ拾えたり、といった具合に移り変っていっただろう。

そこで、縄文人は一番良く拾えるドングリ林の付近に住み、煙道付炉穴で殺虫・乾燥保存して冬を越した、と考えた。ここでの1集団は、同時には竪穴住居と煙道付炉穴を1基ほど作ったらしい。そして耐用年数の違いから、竪穴住居1基に対して煙道付炉穴3基までの割合で、遺構として残したと考えられる(註5)。

次に良く拾える何ヶ所かの林付近では何日間かキャンプして拾い、そこで煙道付炉穴を作り、殺虫・乾燥させて持ち帰ったのだろう(註6)。ここでは煙道付炉穴だけをほぼ1基ずつ作ったが、耐用年数の関係で居住地の竪穴住居の3倍までの数を遺構として残した、と考えられる。

そのほかの少しだけ拾える林では、日帰りで拾ってそのまま持ち帰り、居住地の煙道付炉穴で処理したのだろう。ここには何の遺構も残さなかった。

このようにドングリ林の生り具合に応じて採集パターンを変え、一番良く生る林を追いかけるように引越しをくり返していたのだろう。遺跡はこうしたパターンの累積の結果だと思われる。

重層的な縄張り内での採集地に伴う居住地の移動パターン

ドングリ林の盛果期の変化に伴う遺跡のパターン

竪穴住居の進化と乾燥貯蔵用炉の歴史

縄張り内で一番良く拾える林の付近に住み、ドングリなどを屋外の煙道付炉穴で殺虫・乾燥させ、竪穴住居に蓄えて冬を越す暮らし方は定住化を促し、それまでの遊動生活を大きく変えたことだろう。

しかし、煙道付炉穴が盛んに作られた頃の竪穴住居には、一般に主な柱がなかった。そのため、屋根裏は狭くて構造的に弱く、たくさんの貯蔵は無理だった。
また、屋内に炉がなかったため、屋根裏に貯蔵したドングリなどはカビや害虫に対しては弱かっただろう。

越冬用食料に縛られるように始まった定住生活だが、貯蔵能力は質量共に未熟だった、と考えられる。

煙道付炉穴の盛んな頃の竪穴住居(主な柱や屋内炉がない)

ところが、やがて煙道付炉穴がほとんど作られなくなり、同じ頃から竪穴住居に主な柱が普及した。

主な柱のおかげで、屋根裏は広くて強くなった。
また、柱によって屋根裏が高くなって火事の心配が減ったことから、屋内炉も普及した。
そして、屋内炉に伴って炉上保存用の火棚も普及した。この屋内炉と火棚によって、虫害やカビの心配もなくなっただろう。

こうして、屋外にわざわざ煙道付炉穴を作らなくても屋内炉でドングリなどの乾燥ができ、火棚で大量かつ安全に乾燥貯蔵できるようになっただろう。
この結果、より安定して冬を越せるようになり、定住化は一段と進んだと思われる。

煙道付炉穴が廃れた頃の竪穴住居(主な柱や屋内炉がある)

そして縄文時代より後になっても、屋内炉は囲炉裏として残っていった。囲炉裏のある暮らしでも、ドングリなどを火棚で乾燥貯蔵して冬を越す暮らし方は引き継がれていった。

住居と乾燥用炉の変化(概略の傾向を示す)

遊動生活から定住生活へのプロセス

縄張り内でドングリなどが一番良く拾える林付近に住み、秋に拾って貯蔵し、冬を越して春まで食べつないだのだろう。

そして、櫛田川流域の各遺跡の多くは、ほとんど単一の土器型式の期間内で引っ越しをしている。
この居住期間(引越しの間隔)は、ドングリ林の盛果期間と基本的に同調していたのだろう。

さらに、櫛田川流域の各集団では一般に一時期に1遺跡であることから、通年の定住が考えられる。

なお、竪穴住居や煙道付炉穴が重複・近接した例が多く、煙道付炉穴の火力調整用に石皿を転用した例もあることから、居住地でもキャンプ地でも同じ場所への回帰性もうかがえる。

このように、ヒト以前の段階からの永い遊動の暮らしを捨て1土器型式の期間内で居を移すという、引越しを前提とした通年定住を選択したのだろう。
そしてその先には、現代の基本的に引越しを前定としない定住生活がある。

ただし、このような定住化のプロセスは、三重県の煙道付炉穴を中心に見た話に過ぎない。
縄文時代の暮らし方は各地方・各時期の条件によって違い、必ずしも一系的な発展段階を想定する必要はないだろう。
現に、櫛田川流域の縄張り内で引っ越しを繰り返した様子は、比較的短期間(早期の初め頃だけ)で不明瞭になっている。

なお、定住するにしたがって衛生問題や人間関係のトラブルなどの解決が難しくなり、その対応策として呪術やタブーなどが発達しただろう。土偶もそうした中で発生したと考えられる。

歴史に果たしたドングリの重要性

アク抜き技術もさることながら、ドングリなどの堅果類の乾燥保存技術体系の確立は、結果的に永い遊動の歴史に終止符をうち、定住の原因と契機となった
そして、定住は社会組織を複雑化する一方、栽培植物が出現する前提ともなった。

結局、ドングリは現代の暮らしに向けて大きく舵を切る重要な要因だった、とさえ言えよう(註7)。

重層的な縄張り内での暮らしのイメージ

- 註 -

註1:
この「ドングリ考古学」では、クリやドングリ及びその他の堅果類を「ドングリなど」と表現しているが、用語法は厳密ではない。
なお、この「ドングリ考古学」は、下記の研究成果に拠るところが大きい。そのほかの参考文献は各章で逐一明示したので、この「まとめ」の章では省略した。
2012年、名久井文明『伝承された縄紋技術 木の実・樹皮・木製品
2010年、安藤雅之『縄文時代早期を中心とした煙道付炉穴の研究』
註2:
この「ドングリ考古学」は、下記の文献をベースにしている。
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会
註3:
堅果類の乾燥に煙道付炉穴が適しているとはいえ、土坑炉を使うなど他の方法でも不可能ではない。事実、堅果類を主要な食料としたであろう縄文社会の全域・全期間に煙道付炉穴が採用されたわけではない。
煙道付炉穴は、堅果類乾燥の一手法としての特定地域の文化的産物と言うべきだろう。
註4:
クリやドングリなどには、豊作年と不作年が不定期に訪れる。こうした現象は、地域的なまとまりがあり、樹種によって異なるという。すると、縄文人はクリとか一種類のドングリだけに特化することなく、リスクマネジメントしていたのだろう。
註5:
「1+3以下」(竪穴住居1基に煙道付炉穴3基以下)や「0+3以下」などは、考えを進めるための仮置きの数字に過ぎない。
註6:
燃焼実験では、4日で実際の遺構と同程度に焼土化することが確認できた。しかし、ドングリなどの収穫期間は単木でも一般に4日より長く、それがドングリ林全体ではもっと長かっただろう。
1回(シーズン)のキャンプ期間は、おそらくドングリ林の収穫期間に同調していたと考えられる。
また、何回(シーズン)キャンプしたかは生り年の問題もあり、ドングリ林次第だったのだろう。
註7:
この「ドングリ考古学」は、2015年7月にWeb上で公開したが、その後に何回かの修正をした。しかし、2015年10月13日をもって校了とする。

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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