10. ドングリの採集と居住のパターン

クリは栽培でなく保護・採集だった

有機質の木はそのままでは腐ってしまうが、焼けて炭になるといつまでも残る。
火を焚いた煙道付炉穴からも、炭になった木が時々出土する。この炭を調べると樹種がわかるが、その結果はほとんどがクリの木だという(註1)。

煙道付炉穴から出土するクリは実ではなくて木だから、食料というよりも単なる燃料だったのか、と思われる。それでも、有力な食料となる木が身近に多かったことは確かだ。

クリは火事にあった竪穴住居跡からも出土し、建築材として利用されていたことがわかる。建築材としては真っ直ぐな方が良いが、自然状態の主幹は真っ直ぐで長い

一方、芯止めや整枝・剪定をする栽培樹は、主幹が短く曲がっている。なお、芯止めの切口はキレイに切らないと腐りやすく(註2)、石器ではむつかしいだろう。

クリの実る木は、有用樹として意識的に残したりしただろう(択伐残存)。しかし、一方では日陰に弱い陽樹であるクリの間伐、あるいは整枝もされていたことだろう。

なお、クリは火に強いので、主幹が高く伸びた木では、クリを拾いやくすするために下草を燃やしたかもしれない。草むらでのクリ拾いは大変だからだ。

こうしたことを考えると、種まきから収穫までを管理する栽培とまではいかないが、クリの木の保護はされていたのだろう。
いずれにせよ、縄文時代の早い頃から、クリが非常に大切な食べ物だったことは間違いない。

クリは美味しいが、基本食はドングリ

第6章でも触れたように、クリは「最初は美味しいが毎食では飽きてしまう。この点シタミ(ドングリ、筆者註)は連食してもクリより飽きがこない。味で比較すればクリが選択されるが」、毎日食べる基本食にはドングリがむいている、という話が採録されている(註3)。

また、明治6年の『斐太後風土記』によると、平野部でクリは菓子類や副食的利用に傾いているのに対し、山間部でトチやナラは主食の一部を担っていた、という(註4)。

それでも、クリが縄文人に多用されていたことは間違いない。すると、クリは副食的利用以上に、基本食としてのドングリに食味用として混ぜて食べていたのか、とも考えられる。

ともかく、クリの多用は注目されがちだが、クリの背後にはそれ以上のドングリの多用があり、ドングリこそが基本食だったのではなかろうか。

ドングリ林の盛果期

「桃栗三年、柿八年」と言うが、それは生り始めの樹齢を意味している。そして、中には百年・二百年経っても生り続ける木もある。しかし、一般にクリの盛果期は、数年から十数年までの10年ほどだ(註5)。ただし、単本ではなくて沢山ある林全体の盛果期はもっとまとまりがないだろう。

栽培されないドングリについては、クリのような樹齢による生産量の変化に関する研究書は見つけられなかった。それでも、おそらくクリに似た生態なのだろう(註6)。クリも含めた広義のドングリ林の盛果期間に注目しておきたい(註7)。

ところで、第8章でも触れたように櫛田川流域の遺跡の定住期間は、一般に1土器型式の期間内だったらしい。そこで、定住の期間(引越しの間隔)は、ほとんどドングリ林の盛果期間にしたがっていたのだろう。

なお、クリやドングリなどには、豊作年と不作年が不定期に訪れる。こうした現象は、地域的なまとまりがあり、樹種によってサイクルが違うという(註8)。すると、縄文人はクリとか特定のドングリだけに特化することなく、リスクマネジメントしていたのだろう。

クリの収量と採集地としての価値の変化

ドングリ林のランキングと採集パターン

煙道付炉穴を作っていた縄文人は、縄張りの中でドングリなどが一番良く拾える林付近に住み着き、拾い集めたドングリ類を選果した後に煙道付炉穴で殺虫・乾燥処理して貯蔵し、冬を越したと考えられる。
ここでは、竪穴住居と煙道付炉穴の跡を残している。
そして多くの場合、居住期間はドングリ林の盛果期間にしたがっていたのだろう。

次に良く拾える林は何ヶ所かあっただろう。こうした林には居住地から出向いてキャンプし、拾い集めて選果したうえ煙道付炉穴で殺虫・乾燥処理し、持ち帰ったと思われる。
ドングリもたくさん拾うと意外に重いものだが、こうして乾燥まですると軽くなる(註9)。そのうえ燃料の枯れ木は、居住地の周りばかりよりも容易にたくさん拾えたはずで、キャンプする方が合理的だ。
ここでは竪穴住居は作らず、煙道付炉穴の跡だけを残している。
なお、第3章でも触れたように、煙道付炉穴は焼土化の進行状況から4日以上焚いていると思われるが、ドングリなどの収穫期間は一般に4日以上で、それがドングリ林全体の収穫期間はもっと長かっただろう。そして1シーズンのキャンプ期間は、ドングリ林の収穫期間にしたがっていたのだろう。
また、何回(シーズン)キャンプするかは生り年の問題もあり、ドングリ林次第だったのだろう。

そのほかにも、少しだけ拾える林も何ヶ所かあっただろう。こうした林では、住んだりキャンプするほどではないために、日帰りで拾って帰ったのだろう。
したがって、ここでは何の痕跡も残しておらず、現代の私達には確認できない。

1集団の大きさ

当地方の竪穴住居は直径3・4mの例が一般的で、数人しか住めなかっただろう。そして多くの場合、同時期の竪穴住居は1基か、せいぜい2・3基あるだけだった。

すると、1集団は数人か、多くても十数人の場合が多かったと考えられる(註10)。それでも、中には2・3の集団がいっしょだった場合もあったかもしれない。

ともかく、集団のメンバーは親子を中心とした親しい仲間たちだったのだろうが、集団のメンバーは必ずしも固定的ではなかったと思われる。

竪穴住居と煙道付炉穴の耐用年数と累積数

先に述べたように、1回の居住期間は基本的にドングリ林の盛果期間と対応していた、と考えられる。
そして第8章でも触れたように、櫛田川沿いの遺跡の居住期間(引越しの間隔)は、一般に1土器型式の期間内だったと見られる。

これに対して、竪穴住居の耐用年数は、1土器型式の期間よりも短かっただろう。したがって、1集団は1居住期間に1基から数基の竪穴住居を作ったと考えられる。

煙道付炉穴は、少人数の集団が居住地と複数のキャンプ地で同時に何基ずつも使っていたとは考えにくいため、それぞれの場所で1基ずつ使っていたのだろう。
また、煙道付炉穴は屋外に作られていてトンネル(煙道)もあるため、竪穴住居よりも耐用年数は短かったと考えられる。

中野山遺跡の8次調査例では、広い調査区内で3基の煙道付炉穴だけがまとまって認められた。さらに、調査範囲の広さの問題は多少あるが、坂倉遺跡では竪穴住居8基以内に対して煙道付炉穴は19基、大鼻遺跡では8基に対して16基ほど、鴻ノ木遺跡では17基対21基ほどが検出されている。

結局、竪穴住居1基の存続期間中には、煙道付炉穴は居住地やキャンプ地でそれぞれ1基ずつ使っていて作り替えた場合でも累積で3基以下だった、という例が最大公約数的かと思われる。

縄張り内で1集団が1時期に残す遺構の基本型

なお、竪穴住居や煙道付炉穴などは、広い場所の中でも一ヶ所に集中して重複や近接する場合が多い。また、煙道付炉穴の底に使い込んだ石皿を据えて火力調整した例もある。
こうした様子からは集団の回帰性がうかがえるが、回帰の間隔は基本的にドングリ林の生り具合次第だったのだろう。

遺跡は居住跡やキャンプ跡の累積結果で、パターンがある

以上見てきたように耐用年数を考慮すると、1居住期間の累積数は竪穴住居1基に対して煙道付炉穴3基までが目安になりそうだ。そこで、今仮にこの「1+3以下」や「0+3以下」・「0+0」という数字を使って考えを進めてみよう(註11)。

Hパターンは、居住地(一番良く拾える林付近)だっただけの遺跡で、竪穴住居とその3倍までの煙道付炉穴がある場合とした。数が多い場合は、何回も居住地として回帰した累積結果と考えられる。
具体例としては、坂倉遺跡(8+19)や大鼻遺跡(8+16)・鴻ノ木遺跡(17+21)などがある。

HCパターンは、居住地(一番良く拾える林付近)の時とキャンプ地(次に良く拾える林付近)の時があってこれが重複した遺跡で、竪穴住居とその3倍より多い煙道付炉穴がある。このパターンも、何回か回帰した場合が多かったらしい。
具体例としては、8次調査を除く中野山遺跡(4+百数十)がある。
なお、このHCパターンは、居住地だった時の方が比較的多い「Hc」と、キャンプ地だった時の方が多い「hC」に二細分できそうだ。

Cパターンは、キャンプ地(次に良く拾える林付近)としてだけ使われた遺跡を指す。中野山遺跡の第8次調査区(0+3)が好例だろう。やはり、このパターンも何回か回帰した場合が多かっただろう。

Gパターンは、日帰りの採集地(少しだけ拾える林)だ。竪穴住居も煙道付炉穴も作られなかったので、痕跡は確認できないけれど(0+0)、こうしたパターンもあったはずだ。

ドングリ林の盛果期の変化に伴う遺跡のパターン

縄張りには、居住地と里山と奥山があった

一番良く拾えたドングリ林も時と共にそれ程でもなくなり、別なドングリ林の方が良くなる。すると、そこに引っ越しただろう。

このように、縄張りの中で引っ越しを繰り返していたために、付近の原生林もやがて二次林になり、人為的に変えられた環境に適した、いわゆる里山植物が増えていっただろう。こうして「里山」が成立したと考えられる。

縄張り(単位領域)には、「村」とも「集落」とも呼ばれる居住地(拠点利用域)、そして引っ越しを繰り返して里山となった範囲(集中利用域)、さらにその周りには狩りの時以外はあまり立ち入らない原生林の奥山があっただろう。縄張りは、これらすべてを含んだ入れ子のような構造をもっていたと考えられる(註12)。

重層的な縄張り内での採集地の変化に伴う居住地の移動パターン

こうした縄張りが並んでいる様子は、第8章で触れた櫛田川流域で良く見ることができる。縄張りの広さは、その時代その地方の自然の恵みの豊かさ次第で変わったのだろうが、煙道付炉穴の作られた縄文時代の早い頃の櫛田川流域では、直径5・6㎞ほどだったらしい。

ドングリなどの自然の恵みが文化を育んだ

氷河時代が終わっていち早く温暖化した黒潮沿岸からドングリなどが豊かになる一方、冬には食料確保が一段と厳しくなったことに対応し、秋に煙道付炉穴で乾燥保存して冬を乗り切るようになったと考えた(註13)。

そして、温暖化でドングリなどの食料が最初に豊富になった南九州から、次第に人口も増え、文化も発展したのだろう。

例えば土偶は、現段階で古さ№1・2・4が三重県、№3が滋賀県、№5~8が大阪府で見つかっている。
けれども黒潮沿岸の文化動向を考えると、今後もっと古いものが南九州から出てきても驚くには当たらないだろう。

第9章でも触れたように、衛生問題や人間関係のトラブルなどの解決が定住するにしたがって難しくなり、そこで呪術やタブーなどが発達しただろう。
土偶も、そうした中で発生したのではなかろうか(註14)。

ともかく、このような文化の発展を支えたのが、氷河時代が終わって豊かになったドングリなどを乾燥保存する技術体系だったのだろう。
この、煙道付炉穴を用いたドングリなどの乾燥保存技術体系は、黒潮沿岸を中心に流行した。しかし、そのほかの列島各地でも、別な方法でドングリなどの自然の恵みを積極的に活用していったことだろう(註15)。

第11章では、煙道付炉穴とドングリについて考えたことを、「まとめ」として終ろう。

- 註 -

註1:
2010年、安藤雅之『縄文時代早期を中心とした煙道付炉穴の研究』
註2:
1949年、本多昇『栗の栽培』
註3:
1992年、松山利夫・山本紀夫編『木の実の文化史』
註4:
1984年、小山修三『縄文時代』
註5:
1974年、為国末幸『クリの栽培と経営』
1977年、若山善三『クリ・長期安定の技術と課題』
註6:
照葉樹林帯の縄文遺跡は、落葉広葉樹林帯に比べて小規模で希薄なことは明らかだ。ところが、照葉樹の方が落葉を再生産しなくてはならない落葉広葉樹よりも、ドングリの生産量は高いという指摘もある。
また、照葉樹のドングリ(アカガシ亜属やマテバシイ属)の方が、落葉広葉樹のドングリ(ウバメガシ以外のコナラ亜属)よりも、アクの弱いものが意外と多い。 どうやら、東西格差の原因は単純ではなさそうだ。
1984年、小山修三『縄文時代』
1982年、松山利夫『ものと人間の文化史47 木の実』
註7:
「森」と「林」の本来的な字義にはとらわれず、「ドングリ林」などと表現しておく。
註8:
註4と以下の文献。
1979年、田川日出夫「照葉樹林の種子から成樹へ」『自然』
1986年、斎藤新一郎「ドングリころころどこへ行く」『アニマ』14(12)
1996年、亀山章編『雑木林の植生管理~その生態と共生の技術~
註9:
イチイガシで実験してみると、生の時には1升当たり1,300g(690粒)だったが、選果・乾燥後は採集時の重さの75%(975g)になった。
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会
註10:
1集団がこれだけの少人数では、単独で物資や人間の再生産はできない。そのため、縄張りは閉鎖的ではなく、より広域の社会単位が想定される。
註11:
竪穴住居1基に煙道付炉穴3基まで、すなわち(1+3以下)などという数字は、考えを進めるために仮置きした数字に過ぎない。
註12:
1994年、山田猛ほか『大鼻遺跡発掘調査報告書』三重県埋蔵文化財センター
註13:
この「ドングリ考古学」は、註9の文献をベースにしている。
註14:
1999年、山田猛「各部身体表現から見た土偶の性格」『研究紀要』第8号、三重県埋蔵文化財センター
註15:
堅果類の乾燥に煙道付炉穴が適しているとはいえ、土坑炉を使うなど他の方法でも不可能ではない。事実、堅果類を主要な食料としたであろう縄文社会の全域・全期間に煙道付炉穴が採用されたわけではない。煙道付炉穴は、堅果類乾燥の一手法であって特定地域の文化的産物と言うべきだろう。
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