9. 乾燥貯蔵法と定住の歴史

生貯蔵より乾燥貯蔵が重要だった

第7章でも触れたように、ドングリなどの貯蔵の民俗例では、樹上保存と土中保存の生貯蔵と、乾燥貯蔵がある(註1)。

「シダミ」あるいは「シタミ」と呼ばれたものを、主食のように食べていた民俗例は広く知られているが、これは、乾燥貯蔵したドングリを粉にしたものだ。やはり、貯蔵における乾燥法の重要性は明らかだ。

土中保存は、縄文時代初期の東黒土田遺跡(鹿児島県)に例がある(註2)。

一方、クリやドングリの乾燥貯蔵を示すシワのある剝き実や、ドングリを乾燥貯蔵して搗いた証拠の一つとされる「へそ」(座)は、縄文時代初期の鳥浜貝塚(福井県)や早い頃の粟津湖底遺跡(滋賀県)など、各期の遺跡から出土していると指摘されている。

また、縄文時代の屋内炉の上には火棚があったと推定できる例も示され、火棚での乾燥貯蔵が指摘されている。

このように民俗例や発掘成果から、ドングリなどは生貯蔵よりも乾燥貯蔵が重要だったと考えられる。

煙道付炉穴の頃の竪穴住居(主な柱と屋内炉がない)

煙道付炉穴は縄文時代を通じてあるが、主に早い頃(草創期・早期)に盛んに作られた(註3)。
そして、この頃の人は竪穴住居に住んでいたが、一口に竪穴住居と言っても時代とともに変化している。

煙道付炉穴が盛んに作られていた頃の竪穴住居は、柱がなくて屋根が低い例が一般だった。このために屋根裏までの高さを作り出す工夫だったのだろう、床を中央に向かってやや深くしている例が多い。

柱のない家では、屋根裏が狭くて弱い。そのため、ドングリなどを貯蔵するにも、たくさんで重いものは無理だっただろう。

さらに、屋内には炉がなかった。やはり屋根裏が低かったために火事の恐れがあり、屋内には作れなかったのだろう。
ともかく、屋内に炉がないと湿気やすかっただろう。

このように屋根裏での貯蔵は、容積や重量の点もたくさんは貯蔵できなかったはずだ。また、虫がついたりカビたりしやすく、問題も多かっただろう。

しかし、煙道付炉穴による越冬用食料の殺虫・乾燥と竪穴住居内での貯蔵は、それまでよりも生活を安定させたことだろう。

煙道付炉穴の盛んな頃の竪穴住居(主な柱や屋内炉がない)

煙道付炉穴の後の竪穴住居(主柱と屋内炉の普及)

縄文時代の前期以降、煙道付炉穴はほとんど作られなくなった。そして、ちょうどその頃、竪穴住居の構造が変わっている。
竪穴住居の大きな変化は、主な柱の出現・普及だ。

この結果、屋根裏が広くて丈夫になり、たくさんのドングリなどを貯蔵できるようになった。

さらに、屋根裏が高くなったことから火事の心配も少なくなり、屋内炉が普及した(註4)。そして、屋内炉の上に作り付けた火棚も出現したと推定されている(註5)。

この屋内炉の採用と火棚での貯蔵によって、防湿や防虫がより確かになったと考えられる。

こうして、主な柱と屋内炉の出現は、炉上の乾燥貯蔵場所としての能力を質量共に一段と大きくしたことだろう。

煙道付炉穴が廃れた後の竪穴住居(主な柱や屋内炉がある)

遊動から定住に貯蔵が暮らしを変えた

貯蔵したドングリなどのある秋から春までは、おのずとその竪穴住居に住み続けただろう。
そして、第8章でも触れた櫛田川流域の各縄張り内には、同時存在した遺跡がほかにほとんど見られないことから、季節によって居を移す半定住ではなく、通年の定住生活だったと考えられる(註6)。
ただし、この頃の定住は一般に1土器型式の期間内だったようで、このサイクルで縄張り内を引っ越していた例が多かったようだ(註7)。

ともかく、こうして人類として出現する前からずっと慣れ親しんできた遊動生活を捨て、言わば保存食料に縛られて、否応なしに同じ場所に住み続けざるを得なくなった

永い遊動の歴史を捨てての定住は、生活を一変させたことだろう。移動や離合集散する遊動の暮らしは、衛生問題や人間関係のトラブルなどの解消に適していた(註8)。

ところが、こうした問題を定住は抱え込むことになった。そこで、衛生問題では医学の代わりに呪術が、トラブルには法律の代わりにタブーなどが発達し、社会も複雑になり始めたことだろう。
土偶も、こうした定住化による社会の複雑化に伴って、発生したと考えられる(註9)。
また、定住は栽培植物が出現する前提にもなっただろう(註10)。

煙道付炉穴⇒屋内炉⇒囲炉裏、と変化した

上記のように煙道付炉穴が作られて越冬用食料が保存されるようになると、それまでの遊動生活から定住化が始まり、地面を掘って作る面倒な竪穴住居も本格化するようになった。

やがて竪穴住居に主な柱が採用され、屋根裏を広く強くしてドングリなどの貯蔵量が増大した。また、煙道付炉穴に替わって屋内炉が普及した。屋内炉は、熱気や煙によって害虫やカビを防ぐ効果もあった。
こうして越冬用食料をたくさん安全に貯蔵できるようになったことで、以前よりも一段と定住化が進んだことだろう。

そして第7章でも触れたが、後世の囲炉裏も竪穴住居の屋内炉と同じように、害虫やカビを防ぐ働きをした。

結局、これまで述べてきたことをまとめると、次の表のようになる(註11)。

住居と乾燥用炉の変化(概略の傾向を示す)

次の第10章では、ドングリなどの採集パターンについて考えてみたい。

- 註 -

註1:
貯蔵法および「へそ」や火棚などの実例は、下記の文献で紹介されている。
2012年、名久井文明『伝承された縄紋技術 木の実・樹皮・木製品
註2:
1981年、瀬戸口望「東黒土田遺跡発掘調査報告」『鹿児島考古』第15号、鹿児島県考古学会
註3:
煙道付炉穴の全国的な傾向については、下記の文献に負うところが大きい。
2010年、安藤雅之『縄文時代早期を中心とした煙道付炉穴の研究』
註4:
後世の囲炉裏やカマドも、「屋内炉」と言える。そのため、これらと竪穴住居内の炉を区別するためには、「竪穴炉」とでも呼んだ方が本当は良いのだろう。しかし、ここでは呼び慣わされているとおりの「屋内炉」としておく。
註5:
註1の文献に同じ。
註6:
1994年、山田猛ほか『大鼻遺跡』三重県埋蔵文化財センター
註7:
この1居住期間(引越しの間隔)は、ドングリ林の盛果期間に基本的にしたがっていた、と考えられる。
註8:
1986年、西田正規『定住革命』
註9:
1999年、山田猛「各部身体表現から見た土偶の性格」『研究紀要』第8号、三重県埋蔵文化財センター
註10:
ダイズやアズキの野生種には、すでに縄文中期には栽培によって発露した栽培化兆候群が認められている。
目的意識をもってではなく、結果的に栽培化兆候群が発現するまでには、同じような暮らし方が永く続いていたことだろう。
2014年、小畑弘巳「4 マメを育てた縄文人」『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』
註11:
この「ドングリ考古学」は、下記文献をベースにしている。
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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