8. 煙道付炉穴は堅果類の乾燥用だった

典型的な狩猟民も菜食中心だった

縄文人は狩人で、農耕文化の弥生時代から植物食中心になった、と信じている人は今でも多いようだ。しかし、典型的な狩猟民とされてきたブッシュマンやピグミー(サン族)などでさえ、肉よりも 植物を主な食料としていることが知られている。

世界の典型的な狩猟民さえ菜食中心なら、縄文人は主に何を食べていたのだろうか?

肉はごちそう(優良食料)だけれど、いつでも狩りが成功するとは限らない、不安定な食料だ。一方、植物は誰でも確かに採れるので、安定した暮らしを支える「安定食料」で、貯蔵できればなおさらだ(保存食料)(註2)。

狩りには向かない縄張りの暮らし

第10章でも触れるが、三重県の櫛田川沿いには、煙道付炉穴が盛んに作られた頃(縄文早期)の遺跡がたくさん見つかっている。

川沿いには同じような地形がくり返されるけれど、遺跡が集中するところと、見当たらないところがある。こうした様子は、縄張りが並んでいたことを物語っているのだろう。
そして各遺跡の土器はほぼ1型式で途切れることから、1型式の期間内に引っ越す例が多かったと考えられる。

また、縄張りの中に同時期の遺跡がほかにない例が一般的なことから、季節ごとに移り住むこともなかったらしい(註3)。

櫛田川沿いに並ぶ各集団の縄張り

このような暮らし方は、期間限定ではあるが一種の定住であって遊動ではない。ところが、定住して狩りをして暮らしていたら、付近に獲物の動物がいなくなってしまい、主食にするほどたくさんは捕れなくなったはずだ。引っ越しもわずか1.5㎞以内で済ませており、動物を追いかけるためなら意味がない。

やはり、動物を追う狩りよりも植物を採ることが中心の生活だったのだろう。

狩猟用よりも植物加工用の石器が多い

煙道付炉穴から発見される人工物では、石鏃(せきぞく=やじり)や槍先のような狩猟用の石器が少ない。一方、石皿や磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)と呼ばれる調理用の石器が比較的多く発見される(註4)。

調理用の石器は、平たい石を石皿として食材をのせ、片手で持てる丸味があって少し平たい石を磨石として磨り潰したり、やはり片手で持てる丸い石を敲石として敲き潰したりしたもので、どれも自然の川原石のままだが、使った跡が残っている。

自分で用意した石皿と磨石でイチイガシを粉にした

ドングリなどを乾燥貯蔵して食べていた

石皿などの調理用の石器に残されたデンプンの分析からは、縄文時代の初め頃からクリやコナラの仲間などが加工されていた、と推定されている(註5)。

また、縄文人の骨に含まれている炭素と窒素の同位体を用いた食性分析(タンパク質源)の研究から、北海道以外ではやはり植物食を基本にしていたと推定されている(註6)。

さらに、関東・中部地方の縄文中期の場合だが、食用植物、とくに木の実への依存は、ひかえめにみても40~60%はあった、と見積もられている(註7)。

くわえて、縄文時代の初期からドングリの貯蔵穴が発見されている(註8)。

一方、実験では横型の煙道付炉穴は燃料の補給も食材の交換もスムーズにでき、長時間の連続した作業に適していると感じた。そして植物質の食料の中でも、秋に大量に拾って貯蔵しただろうクリやドングリなどの堅果類の乾燥にピッタリだった。

事実、クリやドングリを乾燥させるとできるシワのある剥き実や、乾燥したものを搗くとできる殻(果皮)の一部(へそ=座)が、実際に出土していていると指摘されている(註9)。

燻製と乾燥の関係については、第3章でも触れたように保存食料を作ることが本来の目的で、そのために乾燥させたのだろう。ところが、熱風と煙が分離されていなかったために燻した状態にもなり、これを永年食べていた結果、燻製という嗜好が歴史的に醸成された、と理解した。
したがって、燻製は結果的に得られた副次的な効果に過ぎず、煙道付炉穴の本来の主な機能は保存のための乾燥だった、と考えた。

また第2章で触れたように、煙道付炉穴の底に石を据えた例は火力調整用と考えたが、これも弱火がちょうど良い乾燥用炉とする理解に都合が良い。

そして民俗上も、主食のように食べられていた「シダミ」あるいは「シタミ」と呼ばれた粉は、乾燥貯蔵したドングリから作られたもので、その重要性は明らかだ。
民俗と考古学の事例から、「皮付きのクリを乾燥させて長期保存し、食べるために搗いて皮を破って搗栗をつくり、利用する技術は、縄紋時代早期から現代まで途切れることなく一万年以上にもわたって受け継がれてきたと考えられ」ており、ドングリも同様という(註10)。

以上を総合すると、やはり煙道付炉穴はドングリなどの乾燥用だった、と考えられる(註11)。
なお、煙道付炉穴では殺虫も乾燥と併せてできる。

氷河時代が終わり、冬の食料不足対策が重要になった

一万年余り昔に氷河時代が終わると、日本海に対馬海流が今のように流れ込み、冬には冷たい風で多くの水蒸気ができた。これが雲になって日本海側には大雪が降り、太平洋側には乾いた季節風が吹くという、今日の気候になったそうだ。こうして列島の四季はハッキリし、冬の食料不足が一段と厳しくなったことだろう。

氷河時代後の黒潮と対馬海流

一方、氷河期が去って暖かになると、クリやドングリなどが豊富になった。そこで、秋に大量に拾い、貯蔵して冬を乗り切る生活スタイルが登場した、と考えられている。

第1章でも触れたように、煙道付炉穴の分布は温暖化に伴うように黒潮沿岸を北上すると共に、内陸にも広がっている。それは、堅果類を貯蔵して冬を越す生活スタイルのなかで、煙道付炉穴が作られるようになったからだろう。

第9章では、ドングリなどの堅果類の貯蔵法の歴史について考えてみよう。

- 註 -

註1:
1968年、Lee ,R,B. & Devore,I.(sds)『Man The Hunter』Chicago
註2:
1980年、西田正規「縄文時代の食料資源と生業活動 -鳥浜貝塚の自然遺物を中心として-」『季刊人類学』11-3
註3:
1994年、山田猛ほか『大鼻遺跡発掘調査報告書』三重県埋蔵文化財センター
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会
註4:
石器調査の信頼度が高い鴻ノ木遺跡の煙道付炉穴から出土した狭義の石器(石核・剥片・砕片以外)では、植物加工用石器53%(32/60)、狩猟用石器20%(12/60)。
註5:
2015年、渋谷綾子「(5)残存デンプン粒分析からみた縄文時代前半期の植物利用とその変化」『一般社団法人日本考古学協会第81回総会研究発表要旨』
註6:
1995年、南川雅男「骨から食物を読む」『古代に挑戦する自然科学』(株)クバプロ
註7:
1987年、佐原眞『大系 日本の歴史1 日本人の誕生』
註8:
1981年、瀬戸口望「東黒土田遺跡発掘調査報告」『鹿児島考古』第15号、鹿児島県考古学会
註9:
早い例としては、草創期の鳥浜貝塚(福井県)、早期の粟津湖底遺跡(滋賀県)などが指摘されている。
2012年、名久井文明『伝承された縄紋技術 木の実・樹皮・木製品
註10:
註9の文献に同じ。
註11:
堅果類の乾燥に煙道付炉穴が適しているとはいえ、土坑炉を使うなど他の方法でも不可能ではない。事実、堅果類を主要な食料としただろう縄文社会の全域・全期間に煙道付炉穴が採用されたわけではない。煙道付炉穴は、堅果類乾燥の一手法であっての特定地域の文化的産物と言うべきだろう。

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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