7. ドングリ貯蔵の民俗と考古学

貯蔵法はアク抜きにも劣らず大切

第6章でも触れたように、ドングリを粉にして煮ていると、多くの場合は同時にアク(灰汁)抜きをしていることになる。すると、「渋味を抜く作業というのは、とどのつまり、粉にしたものを水にさらししていくだけの話」だと思う気持ちと同様に、アク抜きは意外と難しくなかったのではないかと感じた(註1)。

一方、いろいろ実験してみたがドングリの保存は予想以上に大変だった。収穫後の主な敵は、害虫やネズミとカビだった。

害虫は主にシギゾウムシなどの幼虫で、ドングリを食べてしまう。
害虫対策としては、煮るか天日干しか水に沈めるかだ。なお、水に沈める方法では風味が損なわれ、その後の乾燥作業にもマイナスになる。

ネズミ対策としては、穴やカゴなどに確実に入れて置きさえすれば良い。ところが、密封するとカビてしまう。

主な貯蔵法だった乾燥貯蔵で一番むつかしいのはカビ対策、除湿の問題だった。良く乾燥させて湿度の低い所で貯蔵する必要があり、それでも封をしたりして少しでも詰めると簡単にカビてしまった。

実際に貯蔵してみて、アク抜きも大切だが貯蔵方法、なかでも乾燥貯蔵にはもっと目を向ける必要がある、と痛感した。

貯蔵方法の種類と実験

縄文人にとって春までの貴重な食料だった堅果類の貯蔵方法は、アク抜きと共に永い伝統の中に息づいていて、民俗調査例として紹介されている(註2)。それによると、貯蔵方法は生のままか乾燥させるかに大きく分けられるという。
私も、それぞれの方法を実際に試してみた。

生貯蔵には、樹上保存と土中保存の民俗例があるそうだ。なお、生貯蔵したドングリの殻(果皮)は、当然はがれずに残っている。

樹上保存としては、選果・殺虫したものをタオルに包んで春まで木に吊るした。しかし虫に食われやすく、あまりメリットが感じられなかった。なお、樹上保存は考古学的には検証ができそうにない。

土中保存としては、選果・殺虫したものを害虫対策として杉の葉に包んで埋めた。春に掘りだして見ると、鮮度は良く保たれていた。しかし、発芽や虫害・腐植の危険性があると思われた。

縄文時代の初め頃にも、土中(土坑)保存の例は少ないながらも知られている(註3)。
このほかに、「袋状土坑」とか「フラスコ状土坑」と呼ばれる穴倉や湿地に作られた貯蔵穴もあるが、これらは煙道付炉穴より後のもののために、ここでは触れない。

乾燥貯蔵の民俗

クリやドングリを乾燥貯蔵する場合は、まず選果し、軽く煮るか数日間天日干しするか水漬けして殺虫する。

以降の作業を典型的な民俗例で見ると、囲炉裏の上の「火棚」に広げて3昼夜炉を焚いて乾燥させる。その後も火棚にのせておく。囲炉裏の熱と煙で乾燥と防虫ができるからだ(註4)。

江戸時代のアイヌ民族の囲炉裏とその上の火棚(註2の文献から転載)

乾燥貯蔵したドングリは、「シダミ」あるいは「シタミ」と呼ばれた粉にし、主食のように食べていた。
そして、乾燥貯蔵したクリやドングリを食べる時は、まず臼で搗(つ)いて殻(果皮)をはずす。それからドングリならアク抜きし、煮るなどして食べた。
このように、貯蔵における乾燥法の重要性は明らかだ。

余談だが、古くは「搗る」を「かちる」と訓(よん)でいて、搗(つ)いた栗を「搗栗(かちぐり)」と呼んだ。そしてその名前から、縁起をかついで戦の前に食べる習慣があった(註5)。
「かちぐり」という言葉からは、クリの乾燥貯蔵が古くから一般的だったという背景がうかがえる。

乾燥貯蔵の発掘例

クリやドングリについては、土中(土坑)での生貯蔵だけが注目されやすいが、乾燥貯蔵したことを示すシワのある剝き実や、搗いた証拠とされる「へそ」(座)は、縄文時代の各期の遺跡から出土しており、初期(草創期)の鳥浜貝塚(福井県)や早い頃(早期)の粟津湖底遺跡(滋賀県)ほかの例が指摘されている(註6)。

また、縄文時代の竪穴住居に火棚があったと推定できる例も、早い頃の高木Ⅰ遺跡(北海道)を始めとして紹介されている(註7)。

やはり、クリやドングリを「乾燥させて長期保存し、食べるために搗いて殻を破って」食べる「技術は、縄紋時代」の初期からあったと見て間違いなさそうだ(註8)。クリやドングリは、縄文人にとっては非常に大切な食料であり、その貯蔵法も重要だったのだろう。

乾燥貯蔵の証拠になるドングリのへそ(座)の出土例(註2の文献から転載)

次の第8章では、乾燥貯蔵法の歴史について考えてみよう。

- 註 -

註1:
2001年、盛口満『ドングリの謎 拾って、食べて、考えた
註2:
この「ドングリ考古学」での民俗・考古学的な所見は、下記の研究成果に拠るところが大きい。
2012年、名久井文明『伝承された縄紋技術 木の実・樹皮・木製品
註3:
1981年、瀬戸口望「東黒土田遺跡発掘調査報告」『鹿児島考古』第15号、鹿児島県考古学会
註4:
註2の文献に同じ。
註5:
例えば、『平家物語』巻第四「橋合戦」段中の「褐の」(かちんの)は、藍を搗(か)ちて染める意からで、戦に「勝つ」に通じる。
註6:
註2の文献に同じ。
註7:
註2の文献に同じ。
註8:
註2の文献に同じ。

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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