2. 煙道付炉穴の発掘

これまでの調査

関東では「連結土坑(れんけつどこう)」などと呼ばれ、早くから知られていた。また、南九州でも良く似たものが発掘されていた。さらに、三重県でも1974年に坂倉遺跡で発見されており、その後も大鼻・鴻ノ木・中野山・野添大辻遺跡などで次々に発掘された(註1)。

そして次第に各地のものが一連のものと考えられ、「煙道付炉穴(えんどうつきろあな)」の呼び方も定着した。

野添大辻遺跡の煙道付炉穴(註1の報告書より)

部分名称

煙道付炉穴を語るためには、部分名称がほしい。
そこで、まず大きい方の縦穴で、火を焚くための「燃焼坑」。そして、小さい方の縦穴で、煙出しの「煙出坑」。さらに、このふたつの縦穴をつなぐトンネルを「煙道」、と呼ぼう(註2)。

煙道付炉穴の部分名称

大きさと形

三重県の煙道付炉穴は、上から見ると、長さ2~3mの細長い二等辺三角形をしたものが多い(註3)。

しかし、なにせ一万年近く昔のものだから、ほとんどが浅いところは壊れて、深い部分だけが残っているだけだ。それでも、深さは数十㎝ある。おそらく、トンネルになっている煙道が落盤しないだけの深さが必要だったのだろう。
縦断形はさまざまだが、燃焼坑から煙道にかけての底が深く、煙出坑に向けて浅くなり、煙出坑の底が一段浅くなる例がやや多いかとも感じる。

壁や底の焼け具合

焼土化は、煙道の入口近くが一番強い。燃焼坑や煙出坑も、ここに近い方を中心に壁や底が焼けている。
ところが、燃焼坑も煙出坑も両端付近は焼けていない
このことから、底が両端まで焼けている発掘例は、かなり削平された状態のもので本来の大きさではないことが知れる。

なお、煙道は壁や底から天井まで焼けているが、天井の上の地面までは焼けていない。

また、壁や底が二重三重に層をなして焼けている例は確認できなかった。焼土が多層化していれば補修して再利用したことを示すが、そのような例はほとんどないと思われる。
おそらく、トンネル(煙道)などを補修する手間をかけるよりも、新たに作った方が楽だったのだろう。

出土したもの

煙道付炉穴の中からは、あまり人工物は発見されない。その中で一番多いのは、石皿と磨石や敲石だ。どれも自然のままの石だが、何か食材を石皿にのせて磨石(すりいし)で磨り潰したり、敲石(たたきいし)でたたき潰したりした跡が残っている。

このほかには土器片が出る場合もあり、これで詳しい時代を知ることができる。

鴻ノ木遺跡の煙道付炉穴から出土した尖底の縄文土器(註1の報告書より)

また、炭になった木が出ることもある。この場合の多くはクリの木だ。実でなくて材木だから燃料だったとしても、クリという有力な食料の実る木が身近に不自然なまでに多かったことは興味深い。

なお、煙道付炉穴の中には石があることが多い。これらの石の大部分は底よりも高い位置に埋もれていることから、炉が使われなくなって自然に埋まっていく途中で紛れ込んだものだ、とわかる。
ところが、まれに底に密着していて上面が焼けた石もあり、炉の使われていた時にもそこにあったと判断できる例もある。こうした例は、煙道を少し塞いで火力調整したものだろう。
さらに、この石には石皿を転用した例もあることから、シーズンを隔てた回帰性がうかがわれる。

作り方

煙道付炉穴を作る場合、まず付近の平らな場所の中で、小さい煙出坑より少しでも低い側に大きい燃焼坑の位置を選んでいる。大きい穴を掘るのに、少しでも楽をするためには合理的な選択だ。

事実、竪穴住居跡や煙道付炉穴跡のような窪地に燃焼坑を掘り、窪地の外に煙出坑を作ることを繰り返した結果、竪穴住居跡に煙道付炉穴が放射状に並んでいる例や、煙道付炉穴が連なっている例が多い。

このような多くの例をみると、季節風との対応関係はうかがえない。
煙道付炉穴の方向は、どうやら風向きとは関係なく、地面のわずかな凹凸を見て作っているらしい。

煙道付炉穴の方位(季節風の向きとは無関係だった)

一方、二つの縦穴をつなぐ煙道は、露天掘りのものもあるのか、興味を持っていくつもの煙道付炉穴を調査した。しかし露天掘りと確認できるものはなく、控えめに言っても、ほとんどはトンネル工法だったらしい。

ということは、先に二つの縦穴を掘ったはずだ。そして、大きくて作業のしやすい燃焼坑からトンネル(煙道)を掘ったのだろう。そのために、煙道と煙出坑のつながった所で段ができる場合があったのだろう。

第3章では、煙道付炉穴で実際に燃焼実験をしてみた様子を紹介しよう。

- 註 -

註1:
2003年、小濱学「三重県における縄文時代早期煙道付炉穴の諸相―多気町坂倉遺跡検出例を中心に―」『斎宮歴史博物館研究紀要』12
1994年、山田猛ほか『大鼻遺跡発掘調査報告書』三重県埋蔵文化財センター
1998年、田村陽一・山田猛ほか『鴻ノ木遺跡(下層編)』三重県埋蔵文化財センター
2014年、櫻井拓馬ほか『野添大辻遺跡(第1次)発掘調査報告書』三重県埋蔵文化財センター
2012年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅱ』
2013年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅲ』
2014年、三重県埋蔵文化財センター『近畿自動車道名古屋神戸線(四日市JCT~亀山西JCT)建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報Ⅳ』
2014年、櫻井拓馬ほか『野添大辻遺跡(第1次)発掘調査報告書』三重県埋蔵文化財センター
註2:
この『ドングリ考古学』は、下記文献をベースにしている。
2014年、山田猛「煙道付炉穴について」『東海地方における縄文時代早期前葉の諸問題』東海縄文研究会
註3:
2004年、小濵学「縄文時代早期東海型炉穴の形態的特長とその傾向」『Mie history』vol.15

-補注-
下記の文献において、次のような指摘がすでにされていたことを遅まきながら知った。引用しなかった非礼をご容赦願いたい(2017.12.2)。
煙道付炉穴の選地と作り方については「省力化の志向」を推定し、その機能は「燻製施設」としながらも「保存性という観点」を重視し、「燻製される食材」に「ドングリなどの堅果類」を加え、その「急速に姿を消す」理由を屋内炉との関係で考察されている。
武田寛生ほか『仲道遺跡・寺海遺跡 第二東名№130地点』(浜松市教育委員会、2012年)p432~438

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